現在、FIFA公認イタリアサッカー協会認定選手エージェントとして活躍する田村信之さん。でもその道のりは決して平坦ではなかった。小学校の時にはじめたサッカー。しかし中学のときにヒザを痛めてしまう。致命的な故障ではなかったが、自らその痛みを言い訳にして、サッカーから離れてしまった。
でも、忘れることは出来なかった。1982年スペインワールドカップ。その大会で得点王に輝いたイタリア代表のパオロ・ロッシ選手の姿が強く心に残っていたからだ。高校ではなにもせず、学校と自宅を往復するだけの毎日。大学に入学すると「何かやらなくては」という焦りが心を占領するようになった。そしてやっと夢中になれるものに出会った。ライフセービングである。そのときのことを思い出して田村さんは、ようやく長いトンネルの出口が見えた、と言う。
ただ、自分の将来はまだ見えていなかった。卒業旅行に行くまでは。
ライフセービングでオーストラリアに行くのか、子供の頃から大好きだった欧州のサッカーを「生」で見るのか、旅行先の選択肢はふたつあった。選んだのは35日間の欧州旅行。いろいろな出会いがある中で、田村さんの気持ちはひとつの目標となって固まる。
「日本にいるだけじゃだめだ」
漠然としてはいたが、サッカー関係の仕事、ジャーナリストの仕事がしたい。そして頭に浮かんだのが、あのパオロ・ロッシ選手だった。それは田村さんにとってイタリアを意味していた。そして渡ったのが、偶然にもペルージャという街だった。
「暗い高校時代が、僕を突き動かしたのかもしれません」
編集部
「田村さんとサッカーの出会いはどのようなきっかけだったのですか」
田村
「1982年スペインワールドカップですね。10歳のときでした。その大会で優勝したイタリアのパオロ・ロッシ選手を観て、それは凄かった」
編集部
「当時日本で、サッカーはあまりメジャーではなかったと思いますが」
田村
「そうですね。現在のようにワールドカップがリアルタイムで放送されるわけではなかったし、予選はまったく情報がありませんでした。サッカー情報誌も月刊で、むさぼるように読んでいたことを憶えています。ワールドカップのテレビで観たパオロ・ロッシ選手はとても体が小さかった。それでもその大会で得点王になったんです。その姿をテレビで観て、とても感激しました」
編集部
「自分でもサッカーをやっていたのですか」
田村
「地元の少年団ではじめました。僕はそんなに上手くなかったし、チームも強くなかったけど、常にボールは蹴っていました」
編集部
「その頃から、いつもサッカーが身近にあったのでしょうか」
田村
「実は中学のとき、ヒザを痛めてしまったんです。成長期にある骨の異常だったんですが、そこでサッカーから離れてしまったんです」
編集部
「致命的な故障だったのですか」
田村
「いえ、やろうと思えばできたのかもしれません。でもその痛みを言い訳にしてあきらめてしまいました」
編集部
「でもあきらめるにしては早すぎると思うのですが」
田村
「もうひとつ理由があるんです。実は高校受験のとき、両親の都合で引っ越しをしたんです。はじめての引っ越しで友達もいない、同じ中学から入学した同級生もいない。ショックでした。そのときから、いま思うと暗い3年間がはじまったんです」
編集部
「暗いとはどのような日々だったのですか」
田村
「入学した時から戸惑いの中、学校に馴染むことができなかった。サッカー部に仮入部はしてみたのですが、結局、周りと話をすることさえできなかったんです。どうしても一歩を踏み出すことができず、入部しなかった。クラス活動も同様で積極的に参加できなかった。いつも一人でしたね。毎日学校と家を往復するだけの帰宅部です。勉強もせず、その日、その日を暮らしていました。もちろん将来のことなんか考えてもいません。いま思うと、やっぱり部活に入らなかったことが馴染めなかった大きな理由かもしれません。学校生活に馴染むまでに、結局、1年くらいかかってしまったのですから」
編集部
「結局、高校時代は暗いまま過ごすことに」
田村
「ええ、抜け出すことはできませんでした。入学から半年後、やっぱりサッカー部に入ろうかとも考えたのですが、途中からは入りづらかった。結局そのまま3年間を過ごすことになりました」
編集部
「田村さん自身に変化が訪れたのは」
田村
「卒業してもなかなか変われるものではありません。実は大学受験で1年浪人しているんです。僕らは第二次ベビーブーム世代、団塊ジュニアと呼ばれる世代です。周りもほとんど浪人でした。僕はまったく勉強をしていなかったし、覚悟の浪人でした。でも浪人時代は、正直言うと楽しかった。誰かに干渉されるわけでもないし、目標があると頑張れるタイプなので居心地が良かったですね」
編集部
「そして1年の浪人を経て、國學院大學に入学。哲学科を選択した理由は」
田村
「理想を追っていたのかもしれません。自分の考えを尽きつめたいということでしょうか。でも就職のことはまったく考えていませんでした」
編集部
「入学していかがでしたか」
田村
「1年のときはまだ、あの暗い時代を引きずっていました。ダラダラとね。でも徐々にではあるのですが、“何かやらなきゃ”って思うようになったんです。運動的なものがやりたくなってきた。探していたんですね。最初は、大学の部活に入ろうかとも考えました。当時はラクロスがはやり始めていて、悩んだのですが結局入らなかった。まだモジモジしていた感じです」
編集部
「何もしなかった、暗い高校時代の反動なのでしょうか」
田村
「そうかもしれません。浪人時代もそうですが、目標さえ見つかれば徹底的に頑張れるタイプなんです。自分自身ではトンネルの出口を求めていたんでしょうね」
「やっとトンネルの出口が見えた、ライフセービングとの出会い」
編集部
「田村さんが、トンネルから抜け出せたと感じたのは」
田村
「大学1年生のとき、中央大学に進学した高校時代の友達にたまたま会ったんです。凄く鍛えられた体をしていて、聞いてみると、ライフセービングをやっているということでした。いろいろと情報を聞いたり、自分で調べてみました。インターネットがない時代ですから、協会に直接電話をして資料を取り寄せたりしたんです。いまも憶えていますが、ドキドキでした。」
編集部
「そのときの気持ちは」
田村
「やっと見つけたという感じです。トンネルの出口が見えて、ガーっという勢いで入り込んでいった。ようやく暗いトンネルから抜け出すことができました」
編集部
「これまで未知だったライフセービングのどこに魅力を感じたのでしょう」
田村
「いま考えれば、資格を取るという部分に興味をもったのかもしれません。泳ぎも苦手で、でもすぐに市民プールに通い始めました。いまでこそライフセービングは大学にクラブがあって一般的になっていますが、当時はそのような時代ではなく、少数派でした。だから自分自身で動かなければならない。資格を取るための講習を受けるにも、活動の拠点となるクラブを探すのも自分から探さなければなりませんでした」
編集部
「自ら行動しなければならない目標ができたという気持ちですか」
田村
「そうですね。ライフセーバーの資格を取るためには講習・試験を受けなければなりません。でもその受験資格を得るためには既定の基準をクリアしなければならないわけです。たとえば水泳では、受験資格となる既定のタイムが設定されていました」
編集部
「他にはどのようなことを」
田村
「大学2年のゴールデンウィークに資格取得のための講習に参加しました。神奈川県藤沢市の鵠沼海岸で5日間の講習でした。まずは泳ぎや砂浜を走る体力テスト、海での救助法、海の知識、そして救急法などです」
編集部
「資格を取ってからは具体的にどのような活動をされたのですか。個人で活動できるものではありませんよね」
田村
「まず浜探しからはじめました。所属するクラブですね。講習を受けた鵠沼海岸にもあったのですが、日本体育大学の学生が多く厳しいかなと思い、自分に合いそうなクラブを探しました。そして見つけたのが横浜海の公園ライフセービングクラブです。普通は先輩や知人の紹介で入るのですが、僕はまったくの飛び込みでした」
編集部
「高校時代にはまったくなかった真逆の行動ですよね」
田村
「本当にのめり込みました。没頭していたという感じです。当時は7月1日から8月31日が遊泳期間で、海岸で実際のライフセービング活動をします。それ以外の期間は、とにかく体を鍛えていました。当時、週刊の少年マンガ誌にバーベルセットの広告が載っていましたよね。それを買って自宅でウェイトトレーニングをしたり、中学や高校の競泳部が本格的に通うスイミングスクールのコースに入って週4日泳いだり、神社の階段を走ったりしていました」
編集部
「ライフセービングに明け暮れた大学生活だった」
田村
「大学の講義とライフセービング、それだけでした」
編集部
「大学卒業後のことは何か考えていたのですか」
田村
「あまり就職のことは意識していなかったと思います。ただ、ライフセービングの流れで、消防の仕事に携わってみようかと考え、試験は受けたのですが落ちてしまいました」
「ふたつの選択肢があった卒業旅行が、いまの自分のスタート地点となった」
編集部
「他に進路は考えていなかったのでしょうか」
田村
「考えていなかったわけではありません。就職活動はしてみたものの、なんかしっくりとこなかった。そのとき卒業旅行に行ったんです。当時は、現在のように就職活動のスタートが早くなく、学生も案外のんびりとしていたという記憶があります」
編集部
「卒業旅行はどこに行かれたのですか」
田村
「宅配のバイトで貯めた30万から40万円を資金に、ふたつの選択肢がありました。ライフセービングでオーストラリアに行くか、それとも欧州のサッカーを“生”で観るのかというふたつです。ずっと好きだったパオロ・ロッシの存在もあるし、ライフセービングの友人でオーストラリアに行ったことがある人間がいたんです。だったら他人とは変わったことをしてやろうと思い、欧州への35日間の旅に出たんです」
編集部
「ひとりで行かれたのですか」
田村
「そうです。バックパッカーですね」
編集部
「実際に行ってどうでしたか」
田村
「イタリアから入って、スイス、ハンガリー、ドイツ、フランス、最後はスペインなどを回りました。サッカーも5試合を観ることができたんです」
編集部
「念願の“生”で観戦したサッカーの印象は」
田村
「僕はイタリアのユベントスが好きで、ちょうどUEFAチャンピオンズカップ準々決勝の試合を観ることができました。1995-1996のシーズンで、対戦相手はスペインのレアルマドリード。ユベントス・ファンの僕にとってはアウェイでの観戦でした。まさに恐怖の中でしたね」
編集部
「現実には、どのような感じだったのでしょう」
田村
「同じホテルに泊っていたイタリア人のサポーターと友達になったんです。チャンピオンズカップのスタジアムは9万人の観客で、そのうちイタリアのサポーターは6千人程度です。囲まれるし、騎馬隊がきて挑発し合うし、本当にもの凄い恐怖でした。そのとき、友人になったイタリア人サポーターが声を掛けてくれたんです。俺たちと一緒にいろって。彼とは片言の英語も含めて話をしたのですが、そのとき思ったんです。イタリア語って抑揚があってキレイな言葉だなって。同時に、僕の中でサッカーの存在が強く蘇ってきたんです。フラッシュバックのように」
編集部
「欧州への35日間の卒業旅行が田村さんに与えた影響は」
田村
「日本にいるだけじゃ駄目だ、という気持ちです。帰国したときはすでに留学することを決めていました」

田村さんにとって仕事とは?
・・・やりたいこと。やりがいのあること。まだ途中だけど、夢の延長。
田村さんにとって仕事でのこだわりとは?
・・・服装、言葉づかい。
田村さんにとって仕事の必須アイテムとは
・・・契約書用の印鑑と朱肉。ボールペン。携帯電話。
後編につづく