Dream e-college > スペシャルエディション > Dream ワークス > Vol.2 前編 田村信之 さん

Dream ワークス

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株式会社エフ・オー・エルスポーツトウキョウ http://www.fol-sports.com
FIFA公認 イタリアサッカー協会認定選手エージェント
田村 信之さん NOBUYUKI TAMURA

1972年12月6日生まれ 神奈川県出身
1996年3月 國學院大學 文学部 哲学科卒業
1997年5月 イタリア語の習得のためペルージャへ渡る
1998年5月 中田英寿選手の通訳・アシスタントとしてACペルージャ(現ペルージャ・カルチョ)に
2000年1月 中田英寿選手とともにASローマに
2004年9月 FIFA公認イタリアサッカー協会認定選手エージェントの資格を取得

ライフセービングに明け暮れた大学時代。その卒業旅行で欧州を訪れた。それは子供の頃からの憧れだった欧州のサッカーを「生」で観たかったから。その35日間の旅で、その後の人生を左右する出会いと体験があった。大学卒業後、迷うことなくイタリアで語学を学ぶために肉体労働のアルバイトをはじめる。そして1997年、念願のイタリア、ペルージャへ留学。翌年、不思議な縁でACペルージャに移籍してきた中田英寿選手の通訳・アシスタントの職を得る。2004年には、イタリアでFIFA公認のエージェント資格試験に合格。2006年に帰国し、現在は日本で代理人として活躍中。

「2年計画のイタリア留学。そこは偶然にもペルージャという街だった」

卒業旅行の欧州35日間が、田村さんが歩むことになる、その後の道筋を見つけるきっかけとなった。ここでも大好きだったパオロ・ロッシの姿がある。留学は決定事項だったが、両親はスペイン語を進めた。費用を出してくれるとも言ってくれた。でも田村さんはパオロ・ロッシの国、イタリア語の習得を選択する。
漠然とではあったが、サッカー関係の仕事・ジャーナリストになりたい、というイメージをもっていた。
イタリアへの留学を決めた田村さんは、まず日本で資金を稼ぐため、肉体労働のバイトをはじめた。2年計画の留学のために300万円が必要だった。
ここでも再び、目標が定まればがむしゃらに突っ走る田村さんの姿があった。

編集部
「卒業旅行から帰国したときには、すでに気持ちが決まっていたのでしょうか」

田村
「はい、イタリア語を学びたい。そしてサッカー関係の仕事、ジャーナリストを目指したいという意志をもっていました」

編集部
「どのようにして留学先を決めたのですか」

田村
「まずはイタリア語を習得するための学校探しです。本などで、すべて自分で調べました。2年でイタリア語を完璧に習得するという計画だったんです。それと費用面ですね。両親が出してくれると言ってくれたのですが、そこまで甘えることはできません。浪人もしていますし。そのためには自分で稼ぐ必要がありました。調べてみるとイタリアって、語学学校が少ないんです。最初は基礎を学ぶために私立の学校に3ヶ月間、そのあと公立の学校にスイッチしようと。そして費用面も含めた条件で探すと、ペルージャ外国人大学が候補として残りました。この偶然の結果が、自分の将来に影響を与えるとはそのとき思ってもいませんでした」

編集部
「費用はどの程度必要だったのですか」

田村
「1年間で150万円。2年計画を考えていたので、300万円を稼ぐ必要がありました」

編集部
「大学卒業後、就職した友人をみて焦りは感じませんでしたか」

田村
「まったく感じませんでした。目標に向かって、一直線に走っていました」

編集部
「費用を稼ぐために、何をされたのですか」

田村
「肉体労働です。アスファルトを敷いたり、橋を作ったり、穴も掘りました。電車の地下道も」

編集部
「どのくらい続けたのでしょうか」

田村
「13か月です。その間は飲みにも行かない、友達付き合いもせず、週6日間、ときに毎日働いていました」

編集部
「そして、イタリアに渡ったのは」

田村
「1997年5月の最終日です」

編集部
「念願のイタリアでの生活はいかがでしたか」

田村
「はじまりは少人数制の私立学校でした。3ヶ月間、週5日間授業ですね。課外授業もありました。すべてイタリア語で、全然分かりませんでした。現地のスポーツ新聞“ガゼッタ・デロ・スポルト”の小さい記事を、辞書を引きながら何時間もかけて読んでいましたね」

編集部
「サッカーとの接点は」

田村
「実は日本で留学費用を稼ぐために肉体労働をしているとき、留学先として決めていたペルージャのACペルージャが20何年か振りでセリエAに上がったんです。留学すればセリエAの試合を観ることができる。とても楽しみでした。でも1年で落ちてしまったんです。僕が行ったときは、セリエBでした。でもゴール裏の年間パスを買って毎週日曜日はほぼスタジアムに通っていました。1試合だけ欠かしてしまいましたが、すべてのホームゲームに行きましたね」

編集部
「セリアBの試合、しかもペルージャ。日本人は目立ったのでは」

田村
「そうですね。あの日本人は誰なんだって。ウルトラと呼ばれるファンの人たちと仲間になりました。ペルージャは16万人程度の小さな街ですから」

編集部
「サッカーを通じて、たくさんの仲間ができたわけですね」

田村
「ええ、最初の3ヶ月間通っていた私立学校のオーナーもそのひとりです。学校経営は奥さんにまかせて、本人はジャーナリストをやっている地元の名士でした」

編集部
「ほかにはどのような出会いがあったのでしょう」

田村
「チリ人の友人が、当時のACペルージャ社長に英語を教えていました。彼は当時のACペルージャ会長であるルチアーノ・ガウッチ氏の息子さんだったんです。そしてある日、英語教師であるチリ人の友人からACペルージャがセリエA昇格を賭けて戦う、トリノとのプレーオフ観戦に誘われたんです。それがいま思えば、僕にとって大きなチャンスでした」

「ACペルージャ社長のアレッサンドロ・ガウッチ氏から言われたこと」

編集部
「そのプレーオフはどうでしたか」

田村
「サポーター席のゴール裏だと思っていたのですが、行ってみたらメインスタンドだったんです。そこでアレッサンドロ・ガウッチ社長を紹介されました。そのとき耳打ちされたんです。このトリノとのプレーオフで勝ってセリエAに上がれば日本人選手を獲得するよって。でもそのときは誰を獲得するのかまったく分かりませんでした。ただ絶対に勝って欲しいという気持ちでしたね」

編集部
「試合結果は、どうだったのですか」

田村
「劇的でした。PKでACペルージャが勝ったんです」

編集部
「そのあと田村さんはどうしたのですか」

田村
「数日後、友人だった私立学校のオーナーから連絡があり、アレッサンドロ・ガウッチ社長が僕と会いたがっていると伝えられたんです。すっ飛んで行きましたよ。そのときACペルージャのことを話したのですが、僕がチームのことを良く知っていたので、その場にいたみんなはびっくりしたようです。その場で中田英寿選手との契約のことを言われました。そして僕には、契約が成立したら、通訳・アシスタントとして働いて欲しいとのオファーをいただきました。もう舞い上がりましたね。何が起きたのか分からない、という精神状態でした」

「はじめての就職。それは中田英寿選手の通訳・アシスタントという仕事だった」

編集部
「中田英寿選手と初めて会ったのは」

田村
「アレッサンドロ・ガウッチ社長とお会いした日から1週間後くらいです、ホテルではじめて会いました」

編集部
「そのときの印象はいかがでしたか」

田村
「とても礼儀正しい青年でした。実は僕自身、中田選手のことはあまり知らなかった。でもそれが良かったのかもしれません。ファン目線ではなく、会うことができたので。初日からお互いにヒデ、ノブと呼び合う関係ができました」

編集部
「具体的にはどのような仕事だったのでしょうか」

田村
「僕はクラブに雇われていたので、グランドとか更衣室などでの中田選手のアシスタント・通訳がメインでした。でもチームメイトから食事に誘われれば同行したり、最初の1年間はほぼ一緒にいましたね」

編集部
「当時のお給料は」

田村
「日本円で手取り14万円ほどだったでしょうか。当時のイタリアでは良い待遇でした。チームに帯同することも多く、食費はほとんどかからなかったし、家賃だけでしたね」

編集部
「田村さん自身は、仕事をしていく過程で何か変化はありましたか」

田村
「中田選手は、ACペルージャで1年半のキャリアの後、ASローマに移籍しました。シーズン途中の2000年1月です。僕も一緒にASローマに移りました。シーズン終了後に中田選手からは、もう1年一緒にやろうと言われていたのですが、でも半年で離れてしまいました」

編集部
「何か不満があったのですか」

田村
「まったくありません。そのようなことで離れたわけではないんです。中田選手自身、イタリアに来て2年が経っていました。言葉もしゃべることができるし、監督の指示も理解できるようになっていました。そうなると、僕の仕事の範囲が限られてくるわけです。徐々にですが、やることがなくなってきた。それなのにお金をもらうのは忍びなかった。それで辞めることを決めました」

編集部
「後悔はなかったのでしょうか」

田村
「離れた後に、後悔はしました。2000-2001シーズンにASローマが優勝したんです。もし残っていれば、みんなと一緒にそれを味わうことができた。そう思うと残念ですね」

「代理人という仕事を知ったとき、偶然にも公募での試験制度がスタート。イタリアで516番目の代理人に」

編集部
「代理人=エージェントになりたいと思ったきっかけはなんだったのでしょう」

田村
「中田選手とASローマに行くことになった前年の1999年9月、イタリア国内限定の資格として代理人の試験がはじめて公募の形でスタートしたんです。それまでは一般的には近寄りがたく、面接のみで弁護士や元サッカー選手が資格を取得していました。実は中田選手も、スムーズにACペルージャと契約を結んだわけではありません。そして僕自身、通訳・アシスタントの仕事をしていく中で、選手の契約から契約後の様々なサポートをする代理人という仕事があることを知ったんです。そこで他の選手に話を聞くと、ほとんど全員が代理人と契約をしていました」

編集部
「代理人という仕事の存在を知って、どうでしたか」

田村
「選手を助けることができたらなぁという思いが生まれました。そんなとき試験制度の公募がはじまったのです。当時はイタリア国内限定の資格だったけど、誰でも受けることができるようになったんです」

編集部
「もちろん田村さんも」

田村
「受けました。でも最初の時はどんな問題が出るかさえ分からない。いま考えれば受かるわけがないんですよね。試験の内容がまったく分からないんですから。そこが僕にとっての転機でした。新しい目標が見つかったんです。絶対に試験に合格したい。代理人の資格を取るんだっていう強い気持ちになりました」

編集部
「具体的にはどのような勉強、試験対策をされたのでしょうか」

田村
「当時はイタリア国内限定ということと、公募がはじまったばかりということもあり、テストの仕組みや制度そのものが手探り状態でした。頻繁にレギュレーションも変わるし、試験時間が20分なのに問題が膨大な量だったり。はじめはレギュレーションにある分からない単語を大学ノートにすべて書き出して、全て調べることから勉強をはじめました」

編集部
「やはり難しいのでしょうか」

田村
「難しいことは事実ですが、それより頻繁に変化する試験方式への対応に苦労しました。イタリア国内の資格で1999年にはじまったのですが、2001年からFIFA(国際サッカー連盟)が全世界で通用する資格として取りまとめたんです。それに伴い試験問題も世界で統一され、各国で母国語に訳して実施されるようになりました」

編集部
「具体的にはどのような試験制度になったのでしょうか」

田村
「問題は全部で20問あります。そのうち15問が世界共通の国際問題となり、5問が各国のローカル問題で構成されるようになりました」

編集部
「試験問題の傾向は」

田村
「基本的には、深い理解力が重要になります。応用問題が基本ですから」

編集部
「田村さんはどの位で合格されたのでしょうか」

田村
「結局は5年かかって、2004年9月に合格しました。この間、本当に勉強しました。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、1年のうち360日は勉強していましたね。それと試験問題もそうですが、採点法がややこしいんです。ひとつの問題に対して、難易度で1点~3点の点数が設定されます。もちろん間違えなければ加点されます。でも間違えた場合、その配点の半分が獲得点数からマイナスされてしまうんです。つまり、2点の問題を間違えた場合、合計獲得点数から1点が引かれてしまいます。たとえば30点で合格だとしたら、獲得点数が32点だからといって合格できるとは限りません。間違えた問題とその減点数によって、30点を下回ることがあるからです」

編集部
「合格率はどの位なのでしょう」

田村
「最近の状況は分かりませんが、僕が合格した2004年9月の試験で約7.7%でした。そのときは377名が受けて、合格したのは29名でしたね。実際受験者の中には、記念受験という人もいましたけど」

「これからは自分なりのノウハウや知識を、日本のサッカーのために活かしていきたい」

編集部
「試験に合格し、代理人になって大きな変化はありましたか」

田村
「2005年に代理人登録した後、ローマに移り住み、友人である弁護士の元で仕事をはじめました。その友人も代理人の資格をもっていたんです」

編集部
「どのような仕事をされたのでしょうか」

田村
「ひとつは柳沢敦選手のFCメッシーナから鹿島アントラーズへの移籍業務を担当しました。他には、小笠原満男選手の鹿島アントラーズからFCメッシーナへの移籍業務ですね」

編集部
「現在は日本を拠点に活動されているのですか」

田村
「2006年のFIFAワールドカップドイツ大会の前に帰国しました」

編集部
「5年という歳月をかけ、苦労して代理人の資格を取り、そして9年間のイタリア生活に終止符を打った理由は」

田村
「帰国の最大の理由は、目標を達成したからです。代理人の資格を取るために徹底的に勉強して頑張った。もう戻ってもいいかなって思ったんです」

編集部
「田村さんにとって代理人という仕事の喜びは何ですか」

田村
「やっぱり選手との信頼関係がしっかりと成り立ち、その選手が確実に成長していく姿でしょうか。僕自身が将来、絶対に成長すると思った選手がいたとします。でも精神面での弱さであったり、プレーであったり、まだ満たしていない部分がある。それをお互いに話し合い、お互いに努力していく中でみるみる変化していく。その結果、1年とか2年後にオファーをいただけたときは本当に喜びですね。もちろんそれが、選手本人にとって素晴らしいことでなければなりません」

編集部
「日本で代理人資格を取ることはできるのでしょうか」

田村
「まったく不可能ではありません。でも日本は特殊だと思います。まずハードルとなるのが受験資格を得るために、都道府県のサッカー協会会長もしくは各クラブの社長から推薦状をもらわなくてはならないからです。それも個人で取得する必要があります。コネクションがあれば可能性はありますが、なければ受験することさえ困難になります。コネクションがあったとしても推薦状をいただけるかも疑問です。それと、受験希望者が少なければ試験を実施しないこともあります。試験問題は世界共通ではあるのですが、日本では試験にたどり着くまでが大変です」

編集部
「なかなか厳しそうですね」

田村
「すぐになろうと思っても難しいですね。でも、いまエージェントをやられている方の前職を聞くと様々です。元広告代理店の方だったり、通訳をやられていた方だったり。他の職業経験を経て、代理人の資格を取られています。逆に言えば、他の職業を経験してスキルを磨き、知識を身に付け、そしてコネクションを手に入れる。そうすることによって代理人の資格を取るという考えでもいいのではないでしょうか。僕も語学を学ぶためにイタリアに渡りました。それが偶然にもペルージャという街で、中田英寿選手と出会った。そしてたまたま代理人の試験が公募となったわけですから」

編集部
「まずは行動することでしょうか」

田村
「そうですね。行動することによって、得るものは必ずあります。また行動しなければコネクションを手に入れることはできません」

編集部
「田村さんのこれからの夢は」

田村
「日本のサッカーレベルは決して低くありません。でも客観的にみて、イタリアやブラジルなど強豪と呼ばれる国に後れをとっている部分はあると思います。そこに自分なりのノウハウや知識を活かしていければと思っています。それとクライアントである選手と一緒に歩み、その選手が日本代表に行きついてもらえればこんなに嬉しいことはありません。素晴らしい選手たちと一緒に仕事ができる。本当に幸せだと思います」

編集部
「最後に、全国の大学生のみなさんにメッセージをお願いします」

田村
「思い描くだけでは、夢ではないと思うんです。夢に到達するには、具体的に何をしなければならないのか、それをいつまでにしなければならないのか。漠然とではなく、具体的に描くことが夢を抱くということだと思います。大学生のみなさんには、せっかくだから夢を持って欲しいですね」

編集部
「ありがとうございました」

シゴトの本音 Q&A

1 現在の仕事内容を教えてください。
1 具体的には、大きく分けると対選手と対クラブの仕事になります。対選手では、まずサポートですね。きめ細かい連絡はもちろんのこと、出場する試合を見に行ったり、プライベートの面も含めて相談に乗ったり、メンタル面のケアなどが基本になります。対クラブでは、年棒交渉であったり、移籍する場合は移籍先クラブとの調整や面談の設定など幅広い業務になります。

1 必要となる能力・スキルについて教えてください。
1 代理人ですから、コミュニケーション能力は不可欠です。それと察知能力ですね。我々の仕事は、いつ、誰と、どのような時、その相手がどのような状態でもコミュニケーションができなければなりません。そのためには、相手がいまどのような気持ちであったり、状態であるのかを察知する能力が大切になります。

1 代理人になる方法を教えてください。
1 日本を例にすれば、まず試験にたどり着くことです。都道府県のサッカー協会会長もしくはクラブの社長からの推薦状が受験資格として必須になるからです。もし日本で取得を目指すのであれば、まずは様々な職業を経験し、スキルを磨き、そしてコネクションを作っていくことでしょうか。

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